車イスに乗ったお姉さん。
お店に入りたいですが、入り口は4段の階段の上。
お店に入れない…>_<
さて、問題はどこにあるでしょう?
車イスに乗っているお姉さん?(歩けないこと)
階段?(車イスの人が一人で登れないこと)
〇障害の個人モデルと社会モデル
この問題に関して、
お姉さんに焦点を当てるのが「個人モデル」。
階段に焦点を当てるのが「社会モデル」。
お姉さんが歩けないから階段に登ってお店に入れない。
⇒リハビリをして歩けるようにしよう
階段があるからお店に入れない。
⇒スロープを付けよう、エレベーターを付けよう
アプローチも変わってきます。
この多様性のある世の中で、すべての人が不便なく(少なく?)生活するためにには、「障害」に関して、どちらのモデルで障害を捉えた方がいいのでしょうか?
社会モデルです。
例えば、階段が障害だとすると、その障害による不便を受けるのは、車いす利用者だけではありません。
ベビーカーを押すママ。
膝が痛いおじいちゃん。
ケガして松葉づえをつく若者。
大きな荷物を台車で運ぶ業者。
階段以外の選択肢、例えばスロープやエレベーターの設置はみんなにやさしい社会である条件ではないでしょうか。
〇街で遭遇する出来事
JR、私鉄、地下鉄すべてにおいてエレベーターの設置やわかりやすい看板の設置などバリアフリー化が進んでいることに気付きます。
ハード面では。
一方、ソフト面はどうでしょう?
電車で出かけると90%超えの確率で高齢の方から声をかけてもらいます。
「あの~、伏見に行きたいんだけど、どこで乗り換えたらいいかしら?毎月、長唄の集まりで行ってるんだけど、今日は何だかわかんなくなっちゃって。昔はスイスイ乗り換えして行ってたのに最近はだめねぇ。どうしちゃったのかしら。…」
「ここはどこの駅?え、堀田?じゃあ次はどこかしら。…え、神宮前?そしたら私は乗り換えて常滑線に…。私はね、毎月大学病院まで電車で通ってるのよ」「乗り換えのホームがわからなくなっちゃったがねー。朝もエレベーター探すのに時間かかっちゃって、乗り遅れちゃったのよね。なんだか最近すぐわからなくなっちゃう」
「バス停がわかんなくなっちゃって。なんだか昔とは勝手が変わっちゃったから、もうわけがわかんないわ。時間はたっぷりあるから毎週のようにここまで来てるのよ。そんでバス乗って帰るんだわ(とはいっても、実際は10年くらい変わってない場所)」
3人の共通点は、高齢者、よく使う場所で迷う、人に聞ける。
高齢になってくると物忘れだけじゃなくて、様々な認知能力も低下するんですよね。
空間認知だったり、遂行機能だったり。
だから慣れているはずの場所でもわからなくなっちゃうことあるんです。
認知症というべきか、言わないべきか迷うところですが、そうゆうこと。
でも、この3人の素晴らしい所は、わからなかったら聞いてること!
もし迷子になって、人に聞くこともできず、辛い思いをしたら、この人は二度と一人で外出しないでしょう。
さらに、聞けたとしてもうまく理解できない(説明されてない?)ことがあっても、辛い思いとして記憶されてしまうかもしれません。
人間は強い感情を伴うできごとについて記憶が強くなっちゃうんです。
嬉しいことも、辛いことも。
〇周りの人の行動こそ重要
高齢者が自立した生活を続けることは、その人がその人らしく生きるために大切なこと。
できるだけ長く、長唄の集まりに行って欲しい。
できるだけ長く、一人で通院してほしい。
できるだけ長く、一人で外出を続けて欲しい。
そのためには、ほんの少しの皆の助けが必要な時もあるんです。
キョロキョロしている高齢者をみたら気にかけてみる。
道を聞かれたら、丁寧にお伝えする。
介助補助?の研修を受けている駅員さんは多いみたいです。
一般の人も基本的には優しいのかな。
すべての人にやさしい社会づくり。
No one left behined.